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2010年9月

2010年9月29日 (水)

日本における「シナ呼称問題」

普通の日本人が「中国」と呼んでいる国のことを執拗に「支那」と呼べという論者が数人いる。渡部昇一・兵頭二十八・呉智英が有名である。

私はその説を理解しつつ、違和感を覚えている。まずは「支那」説を要約してみよう。ヨーロッパ言語ではかの国のことを大抵古代王朝の「秦」に由来するChina(英・独)、chine(仏)などと呼んでいる(ちなみにロシア語ではКитай、これは北方諸語では多用されている)。これには誰も抗弁するものはいない。ならば日本語でも同じ由来の支那・シナと呼んでも差し支えない上に、中国というのは「世界の中心にある国」という意味だから不適当である、ということである。

その理論には瑕疵はないと思うが、もうあそこにある国は百年近く「中華民国」「中華人民共和国」という名前の国である。もちろん中華民国時代(もちろんこの国は現在も台湾島とその周辺の島嶼部に存在しているが)にこそ「支那」という用語が多用されたわけだし、私が時たま「合衆国」「連合王国」と呼んでいる国は通常は「アメリカ」「イギリス」と呼ばれ、それで十分に通じている。

では私はどんな違和感を持っているのか。「中国」というと、「シナ呼称論者」には「世界の中心にある国」を連想させるようだが、私には「大英帝国」「大日本帝国」に対する「中くらいの国」を感じさせる。もちろん「中華民国」「中華人民共和国」の略称としても十分に通じると感じる。ただ、モノの本で読んだ話では、日「本」国に対する「支」那という感じがするので中華民国の外交官が「支那呼ばわりはやめてくれ」と抗議したという話が残っているそうだ。だから一部の「シナ呼称論者」は漢字では書かずにカタカナで「シナ」と書く。

私の「中国呼称論」は上記の通りなので、「シナ呼称論者」の文章を引用する時以外は中国と書く。ただこれが「中国」ではなく、「中華」と呼べと両国が抗議してきた場合(これだって両国の国号の略称には違いないから)は「シナ呼称論者」の論理を借りて私でさえ反論するであろう。「中華」という呼称にこそ「世界の中心にある皇帝が生わすところ(今は皇帝ではなく主席と総統であるが)」という意味をたっぷり含んでいるからである。

私はあまり好きではないが(Wikipediaの彼の項目を読んで、彼が最初の妻になしたことを見て欲しい。あれでは子供が可哀想だし、私なら自殺しかねない)、司馬遼太郎という高名な文人がいる。彼は中国と韓国/朝鮮には固有の地域呼称がない、と喝破した。実は日本もその意味では固有の地域呼称ではないのだが、一応万世一系を貫いているので(ここでは異論は認めない)、たまたま王朝名が地域呼称になっているだけである。ヴェトナム(越南)も似たようなものだが、中国明朝期に認められた王朝名がたまたま地域呼称になって現在に至っている、という次第である。第二次大戦後に国が二つに割れた時に北も南も国号にヴェトナムを入れた上にヴェトナム戦争で北が勝ったからヴェトナムで問題なく通じているだけなのだろう。

何かうまい解決方法はないのだろうか。アフリカにコートジボアールという国がある。訳すると「象牙海岸」なので、政体と合わせて、象牙海岸共和国という言い方もあったらしいが、同国の外務省と大使館が「我が国の呼称は各国語に訳して表現してはならない」との通達を出して、世界中に守らせている。誇り高き大陸中国でさえ音訳でかの国を表現している。できれば同じように世界中にChinaではなく、Zhongguo(中国語の発音上の「中国」)であるとの声明を発して、発音はピンイン方式でも各国語の方式でも構わないと通達を出せばそれですべては解決するのだが、日本のウヨサヨ問題程度でこんな通達を出してくれるとも思えないので、「シナ呼称問題」は永遠に続くのだろうか。

2010年9月27日 (月)

日本における外国語教育(特に英語について)

http://lm700j.at.webry.info/201009/article_26.html を起点に、

http://togetter.com/li/53889 を発見して考えたことを少し論じてみたい。ただ、このサイトはツイッターとリツイートを元に作られたサイトだが、すべてのリツイートを見ているわけではないので、私の論述に過ちがあるかもしれない。どちらかというと、語学教育だけではなく、エリート教育すべてに関する論考と思って下さい。

よく日本人のTOEFLの平均点がアジア最低、世界最低と言われることがあり、その理由に「日本人は裕福だから、留学を目的としないものも受験する」と言われる。そして受験者がアジアでは圧倒的に多数であることもその補助線として加えられることが多い。

しかし、このリツイートを見ると、日本の受験者は7万人、韓国の受験者は10万人と、人口比が5:2であるにもかかわらず、韓国の方が受験者が多いのである。まぁかの国の留学熱によって、この10万人はほぼすべて留学希望者と見て良いのだが。

そういえば日本人で正規留学を希望するものは何を目的とするのだろうか。日本では国内の四大を卒業して新卒で入社した企業に定年まで働き続けることが(一種のファンタジーとはいえ)、最高のキャリアコースト見なされている。ここに留学というものの入る余地はない。むしろ留学する者はキャリアコースから外れた者と見なされるのではないか。

もちろん例外はいる。学者志望者とキャリア官僚見習いあたりか。あと、マスメディア周辺で生息する連中にもいそうな気がする(それは前者の落ちこぼれなのだろうか)。そういった連中が世論を形成するのだから、日本人のTOEFLの平均点の低さを嘆くのはよくわかる。しかし、果たして日本人の上位五分の二と下位五分の二の人生キャリアコースに外国語の必要性はあるだろうか(上位五分の一ならさまざまなキャリアコース―上記の学者とキャリア官僚など―が考えられるので除外した。五分の二だと、先述の「最高のキャリアコース」を歩んでいる者を想定しえると考えたのでここを定めた)。

このレベルだと、もし急に英語が必要になった時、上位五分の二なら会社や役所が研修を用意して英語力をつけてくれるだろうし、下位五分の二ならどこの国でもブロークンイングリッシュで押し通してしまうのではないか。海外旅行でむちゃくちゃな英語で買い物をしても、大して問題がない、アレである。そのレベルでいい英語力ならば、むしろ国際的観光地の土産物屋のおっちゃんおばちゃんの英語力は、「ある意味で」非常に高い(時には中国語だったり韓国語だったりする可能性もあるが)。生活に直結しているからだ。だが、あの英語を教えて欲しいという英語学習希望者は、誰もいないと私には確信できる。

そして日本という国は実際、学者・キャリア官僚と国際的観光地の土産物屋にいるおっちゃんおばちゃん以外は外国語を必要としない国なのである。これが韓国だと留学経験者は社会のさまざまな場面で優遇されると聞く(逆に日本と同様に韓国式生活様式とかけ離れているので敬遠されるという話も聞くが、どちらが正しいのだろうか)。もちろん外国語熱は非常に高く、私のような下位五分の一に属する者でもいろいろな外国語を学び散らしているし、各カルチャーセンターにおける英語を含むさまざまな外国語のコースは満員御礼である(中には一般人にとって聞いたことがない国の言葉のコースは最低開催人数不足で開講できないこともあるが)。

そういう国の外国語教育のあり方というモノを、大陸国で、四方を国境に囲まれている国の外国語教育と同列に考えるのは何かおかしいのではないか、という常識は働かないのだろうか。この問題に関しては、先述の学者希望者・キャリア官僚の見習いを除いて、自分の頭で考える必要があるのではないか。繰り返すが、この問題はどこにも参考になる国はない(韓国なら、反面教師としてなら非常に参考になると思う)。

私の提案は(というよりは自分に言い聞かせることなのだが)、外国語が生活に必要な者を除いて(本当は含めてなのだが)、カルチャーセンターあたりで外国語を学ぶ者は、それでもその言語に通じたいなら練習の量と時間を確保することであり、それがさまざまな理由や人間関係で不可能なら、カルチャーセンターの~語講座とは~語を習うと称して人間関係を築く場であると割り切るのが筋である。

こういう問題は前のエントリーでご登場願った黒田龍之助先生が詳しそうなのだが、私には氏にお話を聞くためのコネがないので、問題点を列挙して、最低の提案を自分でして見た。このブログのウォッチャーさんたちにも是非コメントでご参加願いたいものです。

2010年9月20日 (月)

どうしてもタイ語

私のPCでAmazonおまかせリンクを見ると、タイ語関連の書籍ばかりが出てくる。ここ2~3年はタイ語との縁を切ってきたつもりなのだけれど、ブログをいちばん頻繁に更新していた平成17年の記事が、タイ語の集中講義を受けてきたということとその始末が多めに書いてあるので、Amazon側では私のこの『座敷牢から風の祈り(ブログの旧名)』をタイ語ブログと認識したに違いない。実際当時は東南アジア言語・中国語のブロガーとも交流があったためにコメント・トラックバックまで丁寧にそういう傾向を持っている。

しかし、せっかく集中講義を受けてきたとはいえ、復習は講義を受けている時にもしなければならないということを忘れて、講義中は聞きっぱなし(これには私がノートテイキングが下手くそという事情も絡んでくる)だったために、9月に復習のようなことをしても結局身につかず、それ以来タイ語とは半ばおさらばのような形を取ってきた。

しかし、気持ちの上では今でもタイ語をある程度身につけたいというものがあり、今まではそれを封印してきたのだが、昨日日野の中央図書館でついにタイ語の教科書を借りてきてしまった。もちろん一カ月で一冊上げられるとは思っていないし、ほかの言葉の勉強もあるので、単に読み流す程度の意味で借りてきただけなのだ。あと、私が借りてきた本はamazon.co.jpでは非常に評判が悪く、どう評判が悪いのか、怖いもの見たさというのもあったような気がする。

最も私が見た限りでは、タイ語の文字の勉強編で、「コーカイ、コークワイ、コーコン~」の伝統的な文字の並びを使っておらず、並びを無視しても文字を覚えさせるやり方を採用しているのが、気に入らない人は気に入らないのではないか。現状では私の感想はその程度である。

2010年9月15日 (水)

物欲なくして、好景気なし

Weeklyascii_3

電車の中で拝見したので、思わずデジカメで。注目は週アスの広告の下の部分。手すりつり革で見づらくなっているものの、読めないほどではないでしょう。ほかの広告も見れば何線かすぐにわかりますよね。

本当にそう思いますが、先立つものがなければ物欲も発揮できませんよね。ただデフレなので(本当は全然いいことないのだけど)買えるものが増えるというのはあるかもしれませんね。100円ショップも繁盛しているし。

2010年9月12日 (日)

ED

Antidepressiondrugs 確かに年齢的にそういう年なのかもしれないが、私の場合はそれとは全く関係がない。まさか勃たなくなる(というか感じなくなる)とはなぁ……。でも思い当たる節は思いっきりあるんだよな。一カ月近く前から抗うつ薬をまじめに飲むようになって、すぐにでもないけど、徐々に効いてきたのがわかってきた。

とはいっても、数年前にも抗うつ薬を飲んでいたのだが、その時と比べると本当に少量で(今の主治医が薬はなるべく少なく、という方針の医者だからなのだが)、それにもかかわらず本当に勃たなくなるのだから抗うつ薬はきつい。

以前飲んでいた時は一日十錠くらいだったのが、今は一錠(あくまでも例えとして挙げた量です)といった感じなのに、ED的には同じ効果を発揮するのだから怖いよな。

一部の外国で強姦魔に化学的処置を施す、という刑罰があるそうだけど、間違いなくこういう薬を処方して飲ませている、ということだろうな。

2010年9月 8日 (水)

エマニュエル・トッドに関する備忘録

実はこのブログで一回だけ、エマニュエル・トッドに出演いただいたことがあったのですが、当時は"Qui est M.Todd?"という状態だったのですが、今年に入って現在の地に住み着いてから、トッド絡みの単行本はすべて目を通した。さすがに藤原書店が出版している雑誌『環』のトッドに関する論述は未見である。

その時のトッドの予言は「日本のような国にアメリカ型自由主義モデルに基づいた規制緩和を持ち込むことは、極右勢力の台頭を引き起こすに違いない」というものだったのですが、実現したとも言えるし、外したとも言える。それは自分で理由を述べているように、日本は既に老成しているのが原因ではないか。ただ確かに「ネット右翼」というものの存在は(これが存在するかどうかを論じるとまた長くなるので、ここでは存在すると論じられているものとして扱う)予言の一部として的中したことの証しかもしれない。

今回のエントリーは備忘録なので、トッド関連の書籍(のうち、和訳が出版されたもの)がフランス本国および日本で発売された順番を書き連ねるにとどめる。

フランス本国
『第三惑星』  1983
『世界の幼少期』  1984
『新ヨーロッパ大全』 1992
『移民の運命』  1999
『経済幻想』  1999
『世界の多様性』→『第三惑星』と『世界の幼少期』の合本 1999
『帝国以後』  2002
『文明の接近』  2008
『デモクラシー以後』 2009

日本での翻訳
『新ヨーロッパ大全』 1992・1993
『経済幻想』  1999
『移民の運命』  1999
『帝国以後』  2003
『文明の接近』  2008
『世界の多様性』  2008
『デモクラシー以後』 2009

なおトッドは(少なくとも以前は)EU統合反対論者で、あるところで「2005年までにユーロは崩壊する。しなかったら笑いものにしてもいい」と予言していたが、現在の金融危機においてもフラフラではあるが何とか持ちこたえている。氏は経済学者ではないので、詳細な総括を求めるのは難しいが、このことについての弁解が聞けたら知りたいものである。

2010年9月 4日 (土)

英語を勉強するわけ

ここのところフランス語だ、ロシア語だといわゆる第2外国語に執着しているようだが、やっぱり大事なのは、今や世界共通語の一歩手前まで来ている英語である。私がいわゆる第2外国語の方に熱心なのは、英語だけだと見方が一方的なってしまう危険があるような気がするから、第3の視点として英米に必ずしも従順ではない国の公用語を習っているという側面がある。

それでも私のメジャー(専攻)というべき国際政治学はほとんどすべて英語で切り開かれ、英語で発展していった歴史があるので、この学問を深めるにはやはり英語を相当深く勉強しなければその神髄に少しでも近づいたとは言えないのではないか。猪口邦子元少子化担当大臣などは、この学問は本質的には英語でしかできないから、上智大学勤務時には優秀な学生にはアメリカ留学を勧めていたという。

最も私の場合、ではどうして大学生のころに英語を真面目にやらなかったのかという疑問が周囲360度から聞こえてきそうだが、終わってしまったことを回想したり反省したりするのがこのブログの目的ではないのでそこは不問に付してもらいたい。ただいま受けて取れそうなTOEICの点数とか、これからTIMEの本誌ではなくTIME for Kidsを読むことにするとか、何か話が遅いような気がするのは否めない。まぁ遅くても全く勉強しないよりはましだと思うので、亀の歩みのごとくではあるが、英語力増進を進めてみたい。

ところで、唐突に何で英語の話を書いたかというと、少し前に英会話の名著(であった、という意見も少しある)『入門用アメリカ口語教本』の本を手に入れ、少し前にお金が入ったのでそのCD音源もamazon.co.jpの中古本で注文を出したからである。文法自体は中学初級のものなので、あとは実行あるのみであるが、その「実行」が私にはひどく難しいものである。まぁそれでも暇を見つけて英会話の練習を心がけたいものである。

あとは奥山真司先生のように、戦略学・地政学に関する大事な文献で和訳されていないものを、英語(・フランス語・ロシア語)から是非和訳して出版したいものである。この点に関してはもちろん実力が第一なのだろうが、何だか出版社とのコネがないと本の出版まではこぎつけられないのではないか、といういらない心配もある。

それに私の性格上、書いてあることを書いてあるままに訳すのは不可能ではないが、いわゆる意訳というのがほとんど不可能なのではないか、という心配もある。まぁ文学でない論文でそこに関する心配は余りいらないのかもしれないが。つまり日本語力である。モノの本によると25歳を過ぎると日本語力の強化は不可能になるそうで、言葉によるコミュニケーションを最も不得手としている私としては、その能力を向上させるべき数多の病院を渡り歩いたが、どこの病院も私の言語表現能力の低さにさじを投げた感じであった。

それでもやらねば一生無職なので、何かいい方法はないか。

2010年9月 2日 (木)

黒田龍之助先生はなぜ大学助教授を辞任したのか

久しぶりにGoogleで「黒田龍之助」を検索していたら、氏の最新刊である『ぼくたちの英語』出版記念講演があって、その議事録が出版社である三修社さんのウェブサイトに掲載されていた。

http://www.sanshusha.co.jp/kuroda/index.html

読んだところ、私が想像していた理由(の一つ)に結構近かった。黒田龍之助氏は軽妙洒脱な文章で結構難しい内容を平易に書くことを得意としており、氏の一般書としての処女出版と二冊目は本人の考えではエッセーなんかではなく、スラブ語学・言語学の入門書として書いたものだというが、周囲には、あの本はどう見てもエッセーだとしか認めてもらえなかったそうである。またどの本だか忘れたが、いかにも学者の論文的な難しそうに見える文章を書くのが苦手であることを告白しており、事実大学院の博士課程を修了しながら、博士論文は提出していないそうである。

常任講師としての最初の職場ではロシア語の教師として働き、その後引き抜かれた大学では助教授として教えていた。ここまでの過程にはどうも博士号の有無は関係なさそうである(日本の大学院は博士号を出し渋る傾向があり、海外からの留学生に避けられている理由の一つでもある)。ただ二番目の常任校で助教授から教授に昇格するために、(私の想像であるが)博士号を要求され、その論文の執筆に苦労して(あるいはその要求を蹴って)、いつまでも助教授で大学に残るのも難だからというわけで(いや、それは大した理由ではないかもしれない)、大学を辞職したのではないか。

私が思うに黒田先生は、学者ではなく教師なのではないか。大学の語学講座は多くが英語教育の専門家でない人が教えている。つまり目の前の~語の先生の専門は中世~文学における誰某の役割とかいう可能性が結構高い。ちなみに私がいたころの国際政経のロシア語講師は、ロシアウォッチャーとして名高い袴田茂樹(当時助教授)が担当していたと思う。もちろん国際政経の専任講師なのでロシア語そのものではなく、ロシアの社会・文化・政治の方を専門としている。

そんな意味で、黒田先生は大学教師向きではなかったのではないか。(本人曰くだが)別にけんか別れで大学を辞めたわけではないので、周りは楽しそうにやっているように見えても本人は心の底で悩みを感じていた、とそんな気がする。

今大学の語学教育、特にリンガ・フランカである英語の教育は実用性が非常に求められている。それなのに大学の英語教師は旧態依然の別の専門を持っている教官のアルバイトとして考えられているのが問題ではないか。大学側としては、実用英語を学生に習得させたいなら、語学に関しては学者ではなく教師を採用するようにシステムを再構築してみてはいかがか。場合によっては教員免許を持った高校教師あたりを引き抜いてみるとか。または教育学部ないし文学部に「高等教育における英語(できれば英語以外も作れれば好ましい)教育専門課程」を作って、学者養成機関である大学院と別個の教育を施すという手を考えてみてはいかがか。

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